9月4日(日)幕末長州藩士殉難者【上善寺】で今年も法要を執り行いました。
2016-09-07
京都市北区烏丸鞍馬口東へ上善寺門前町に浄土宗知恩院末千松遍照院【上善寺】(福井藩主松平家の菩提寺)にて幕末禁門の変において戦士した長州側8人(入江九一、原道太、半田門吉、那須俊平、田村育造、小橋友之助、緒方弥左衛門、一名は不明)の首が葬られ長州人首塚として墓碑が建てられています。なぜここに首塚があるのか、元治元(1864)年7月19日に京都御所蛤、堺町御門や、伏見で起きた長州藩勢力と、会津、福井、薩摩藩等守衛側との武力衝突事件、世に言う禁門の変において戦死した長州側兵士計8人の首を堺町御門警衛隊長であった福井藩士桑山十蔵が、藩主松平春嶽の許しを得て、福井藩主の菩提寺に葬ったからです。本来なら憎むべき敵兵の屍であるが「敵ながら天晴れな働きをして死んだ武士の遺骸をそのままのしておくのは忍びない」と主君(松平春嶽)に報告したら、春嶽も「敵とはいえ、皇国のために働いた尽忠の士である。首級を上善寺へ葬り墓碑を建てた。」言われている。のち明治38年旧藩主毛利元昭公爵に知らされ、毛利侯爵は塚を整備し供養料を寄進、冥福を祈った。いまさらに福井藩に感謝の気持ちを捧げ、これからも法要を永く続けていかねばならないと考えております。長州藩士は入江九一、田村育造の二人、原道太、半田門吉は久留米藩、那須俊平は土佐高岡群檮原村郷士、小橋友之助は高松藩士、であることが判明している。
【上善寺 山門】
【上善寺 本堂】
【長州人首塚】
【長州人首塚之碑】
【長州人首塚前の法要】
【長州人首塚前の法要】
【上善寺の駒札】
【上善寺 山門】